(晴れ)宇宙を省みる、夏

Δじゃ。おどろくことにまだ存命じゃ。

今日はとあるSF小説の一節からはじめようかの。

「歴史上のその一時期を通じて二十世紀の置き土産だったイデオロギーや民族主義に根ざす緊張は科学技術の進歩によってもたらされた、全世界的な豊饒と出生率の低下によって霧消した。古来歴史を揺るがせていた対立と不信は民族、国家、党は、信教等が渾然と融和して巨大な、均一な地球社会が形成されるにつれて影をひそめた。(中略)軍備放棄はすでに全世界の合意に達していた。」

――ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』

 なんとも無駄に漢字の多い文章じゃが、ようするにこのSF小説の中では、科学技術が発達したので戦争とかなくなってハッピーになりましたということになっとるんじゃ。

現実はそう甘くなかった。

いや、甘いとか辛いという話じゃないわな。結局、科学技術がどうたらとか、豊饒とここで書かれとるような物質的な豊かさと、民族紛争や戦争とはほとんど関係なかったんじゃろう。もし紛争や戦争を減らしたいなら、そんな豊かさなどとは別種の抑止が必要になる。

常識じゃな。

これは1977年に書かれた小説じゃが、思えば、21世紀には宇宙に行ったもん勝ちみたいな風潮があったもんじゃ。冷戦時代、ソ連とアメリカが宇宙開発競争で擬似的に戦争を行っておった。わしはその頃まだ生まれておらんかったが、なんとなくその時代の空気は覚えとる。

21世紀に入ると、人類の宇宙への熱は急速に冷めていった。細々と宇宙開発は続けられていったし、宇宙旅行も珍しくはなくなったが、多くの人はそれが海外旅行よりもコストパフォーマンスの悪いレクリエーションじゃと気付いた。無重力は3日で飽きる。宇宙ではまともなビジネスが栄えず、唯一そこそこの市場規模になったのは風俗業じゃった。

つい10年ほど前までは、わしもそんな光景を当たり前のように考えとった。しかしふとしたきっかけで、押入れの奥に眠る古びたSF小説を読んだとき、思ったのじゃ。誰も宇宙を省みなくなった今こそ、わしらは宇宙に身を乗り出すべきじゃなかろうかと。

そこで「べろシティ五世」じゃ。

閉ざされた炭鉱の町のようにがらんどうになった宇宙ステーションを舞台に、一大ビジネスを起こしてやろうと思い立ったわけじゃ。大方の予想通り、その挑戦は失敗に終わったわけじゃが。まあその細かい内容についてはおいおい書いていくとしようかの。

今日はもう疲れた。

そもそも、ほめぱげを更新するのも久方ぶりじゃ。

まあもともと悪かった腰が悪化して、しばらく病院で寝とったでな。しょうがなかったんじゃ。60過ぎてからこっち、体の節々が痛む。老いとは辛いもんじゃのう。

じゃあのう。