(晴れ)ENcoの公開を受けて

Δじゃ。半年ぶりじゃが、お元気かな。

わしは持病が悪化して、しばらく入院しておったわ。狭心症で、バイパス手術というのを受けたんじゃが、これでしばらくは生きながらえそうじゃ。たまには昔話じゃなく、2050年現在のことを語ろうかの。

実は昨日、わしらべろシティが原案をつくった映画『ENco』が公開された。これは2010年代にわしらが小説として発表したもので(初出がどこじゃったかは覚えとらんが)、当時はコメディタッチのSF作品という扱いを受けておった。「ヤクザが宇宙を飛び回って抗争するSF任侠もの、なんて荒唐無稽な」などとわしらは喜んでおった。

ところがどうじゃ。今となっては、これはSFでもなんでもないのう。

諸君らも存じておろうが、つい先日、「暴力団着陸お断り」の看板をだした小惑星が、星ごと爆破された。太陽系警察の指示にしたがって看板を出しておっただけなのに、マフィアの怒りをかい、見せしめとして殺されたわけじゃ。現時点で、惑星民130名全員が行方不明になっているそうじゃ。おそらく、生存者はおるまい。

なんとも痛ましい事件じゃ。亡くなった惑星民の方々に深い哀悼の意をささげるとともに、今後、マフィアの暴力にはけっして屈しないことをあらためて心に刻んだわい。皆もそうじゃろう。

そこで、じゃが。この件を受けて、世論はより一層の暴力団の排除に動くじゃろうか。事はそう単純でもないんじゃな。

惑星民からすれば、警察が守ってくれない以上、今後とも「暴力団着陸お断り」の看板を出し続けるのことは、それ相応のリスクを背負うことになる。仕方なしに看板をはずす小惑星もたくさん出てくることじゃろう。これでは星を破壊した連中の狙い通りになってしまうが、そうはいっても、どうすることもできん。自分等の生命が脅かされているんじゃからな。

21世紀なかばになってもなお、わしら人類は民間暴力組織におびえながら生きとるわけじゃ。世知辛いのう。

最後に、映画『ENco』のあらすじをコピーしておこうかの。さ今の科学技術をもってしても、さすがにペルセウスまでは行くことはできん。が、しかし他の点では、まるで未来を予見しておったかのような文章じゃのう。

 重力の枷から解き放たれてもなお、人類は闇社会と縁を切ることができなかった。二十一世紀中葉、日本から月面への集団移民(ファミリー)の一つ、柄炉市一家。彼らは月の縄張りをめぐる、キューバ系マフィアのカストロファミリーとの激しい抗争の末、勝利する。手打ちの結果、月の裏側に広大な縄張り(シマ)と収入源(シノギ)を得た柄炉市一家は、カストロファミリーを傘下に加え、組員500を数える大組織となった。
 順風満帆に思えた柄炉市一家は、月面進出を記念して盆を開く。そこに現れた一人の流れ者――カベコ・ウキの放ったレーザーチャカにより、三代目柄炉市一家総長が重症を負ってしまう。彼女は銀河系極道組織(ギャラクシアン・マフィア)の統一を目論むペルセウス腕連合会が送り込んだ鉄砲玉であった。
 総長の用心棒を務めていた柄炉市一家若衆の出太は、総長の盾になれなかったことへのけじめとして自身のENcoを詰め、その直後行方不明となる。総長の仇をとるために、単身、銀河鉄道に乗りペルセウスを目指していたのだ。天の川随一といわれる巨大暴力組織を相手に、出太は懐に忍ばせた道具――量子ドス一本でカチコミをかける腹づもりであった。
 一方、月では柄炉市一家が若頭の贋辰刃の意向により、ペルセウス腕連合との全面対決姿勢を決めていた。広大な銀河を舞台に、柄炉市一家500対ペルセウス腕連合500億の戦いが、今はじまる。

(晴れ)広島の脱獄事件の真相

Δじゃ。今回は、ある種の暴露話をしたいと思う。

2010年代初頭の話じゃったか、あるとき広島
刑務所から一人の犯罪者が脱獄した。

そやつは塀を飛び越えて刑務所を飛び出し、
空き巣を働いて服を着替え、街から逃げ出そう
とした。

ところが日本の警察が本気を出して、しばらくの間、
街を封鎖してもうた。2,3日の間にそやつは
発見されて即御用となり、事なきを得たのじゃが。

まあ覚えとらんものがほとんどじゃろうて、
事件の概要については、wikiを参考にしてくれ。

当時わしは、ある種の身代わりトリックが行われた
可能性に気付いたのじゃ。その推理が正しければ、
真犯人は見事、刑務所を抜け出し、今も悠々と
娑婆で暮らしておるようことになるのじゃ。

簡単に種明かしをすると、ようは脱獄していたのは
一人ではなかったんじゃな。二人で脱獄し、一人は
もう一人を報道の的にし、そいつを人身御供として
警察に捕えさせることで、見事自分は逃げ切ってみせた。

わしもそのことを警察に情報提供しようかどうか
悩んだんじゃが、いろいろな事情からそれをやめた。

もう時効じゃろうから、そろそろ真相を明かそうかの。

脱獄事件が起こったのは2012年の1月11日じゃ。
この日付をよく覚えておいてもらいたい。

それと前後して、twitter(当時流行のSNSじゃ)に
ある変化が起こったのじゃ。

浮森かや子嬢が久しぶりにツイートしたのじゃ。

2011年の12月24日のツイート以来、ずいぶんと間が
空いていたのに、2012年の1月12日に何食わぬ顔で
大量ツイートを投下した。なぜこのようなことが
起こったのか疑問に思い、わしは推理した。

そこでひらめいたのじゃ。年末年始はツイート
したくてもできなかったのじゃ、と。

それもそのはず、刑務所におったのじゃから。

まず前提として、彼女は広島に住んでおる、つまり
事件当時、犯罪の舞台におったことを念頭において
もらいたい。浮森といえば広島、広島といえば
チンポプラ、チンポプラといえばごはん大盛りじゃ。

さて、彼女の最後のクリスマスイブのツイートには
サンタさんの物真似」なるものがされておる。
サンタといえば、煙突から民家に侵入するいわずと
しれた空き巣、国際指名手配の大悪党じゃ。

それを真似するというのは、これから不法侵入
しますよというておるに等しかろう。おそらく
彼女はその後、逮捕されて刑務所に収監された
のじゃろう。12月25日か26日辺りのことじゃ。

そして年が明け、1月11日に脱獄し、その後
お得意の民家への空き巣行為を経て、12日の
久しぶりのツイートとなったわけじゃ。

どうじゃろうか。すべてはわしの推測とはいえ、
こう考えてみると、すべてのピースがうまく
はまることに気付くじゃろう。

わしは即座に警察に垂れこもうかと思った。
じゃが彼女がいなくなると、わしの音楽にも
差し障りがでる。じゃて、わが身のかわいさから
警察に言い出せず、そのまま放置してしもうた。

しかし年老いた今、この秘密を墓場にまで抱えて
いくのは、わしにはちょっとばかし荷が重いと
思うてな。時効になっとることだし、打ち明ける
ことにしたのじゃ。

これを読んでおる諸君、脱獄行為を真似しないよう
頼むぞ。罪はすべて自分に返ってくるというしのう。

(雨)フォーラムの思い出

Δじゃ。

M3というイベントのことは、いつぞや話したかと思う。

ある時期よりわしは、このイベントでCDを手売りするだけなのに
退屈しはじめておった。毎度毎度、ブヒブヒ鳴いておるキモオタに
餌付けをするかのように、CDを配っていくだけじゃ。トキメキがない。

そんな折、フリースペースなるものが追加された。フリースペースは
ただCDを売るのみならず、ほかになんらかのパフォーマンスを
行ってもよいという場じゃ。わしはまっさきに飛びついた。

念願の自由の場じゃ。ようやくルーチンワークともおさらばじゃ。

じゃが、いまいち何をしたらよいものかわからんかった。

そこでべろシティフォーラムというのものを開いて、オンラインで
フリースペースで何をするかを公開討論で決めていくことに
したのじゃ。

そのフォーラムでは、わしは書記長だったか総書記だったかを
任されとった。いわずともわかるじゃろうが、実質の独裁者じゃな。

ところが、経済の自由化を進める声には、西側からの圧力には、
平たくいうなら、時の流れには勝てん。歴史は繰り返した。

つまるところ、べろシティでも暴動が起きたのじゃ。

一部の血気盛んな若者により、わしの革命政権、独裁政権は
あえなく打倒されてしまったのじゃ。

そこで、M3当日は、当初予定されておったパフォーマンスとは
まったくの別物になってしもうた。

その結果、べろシティは、「弐世」を終わらすこととなる、歴史に残る
大失態をおかすわけじゃが、それについてはまた今度語ろうかのう。

(曇り)ひくひくしておる

ひくひくしておる

(くもり)額の流星は男の勲章

ごきげんいかがかな。Δじゃ。

最近、ひさしぶりに地震が起きとるようじゃの。プレートの動きが
活発になっとるっちゅうことじゃて、皆々様用心してくだされ。

地震といえば、わしは1995年の阪神淡路大震災も、2011年の
東日本大震災も経験しとるのう。阪神淡路のときはまだ小僧じゃったが、
東日本のときはもう成人しとったんで、家に帰れなくなったりで、
人並みの苦労を味わったもんじゃわい。

その2011年じゃが、その後に募金活動が盛んに行われとったので、
わしらべろシティもM3ちゅうイベントでの売り上げを全額寄付
したんじゃったな。そんときは2円のCDを頒布したんじゃった。

いや、CDじゃないな。ゲームじゃ。

あれはボードゲームとしての機能と音楽CDとしての機能を
兼ね備えたハイブリット作品じゃった。名を『卒業していた』という。
価格は、先にも書いた通り2円(今でいう1.4J$)じゃ。

2円ぴったり払えよと告知したおったおかげか、ほとんどの
客が1円玉二枚を差し出して買おうとしてきたんじゃが、わしの
記憶では二人ほどその限りではなかったのう。

一人は、最初に5円玉を出して、「新譜と、あと前回のちぢれ毛って
ないんですか?」とたずねてきた女性じゃ。もちろん、わしはその場で
股間をまさぐって「前回のじゃない最新のちぢれ毛です、どうぞ」
と一本差し上げたわい。

案外、通報されないもんじゃ。

もう一人は、堂々と100円玉で新譜を買おうとしてきた男性じゃ。
まあ前回の反省を踏まえ、こちらは1円が100枚入るケースを用意
しておったので、あっさり98円のお釣りを1円で返してやったがのう。

べろシティをそこらの若葉マークのついたサークルと一緒に
されてはかなわんな。いまでは紅葉マークがついとるでのう。

そういえば、じゃ。

あの日はわしは、会場に向かう途中に子猫をみつけたんじゃ。
川に流されてる、ダンボールに入った子猫じゃ。ベタな展開じゃな。

日々、猫好きアピール(ホントはエビ好き)に余念がないわしとしては、
これを見過ごすわけにはいかんかった。すぐさま川にダイブして、
見事救出の上、「ネコかわいいなー、かーっ、猫カフェ行きたいわー」
的なアピールを周囲にふりまいてやったわい。

そうこうしとるうちに、サークル入場時間を過ぎて、いやおうなく
わしは遅刻してしもうたが、まあ後悔はしとらん。重度の猫好きじゃからな。

ただ、持ち前の優しさゆえか、遅刻して申し訳ないという気持ちだけは
M3の後もひきずっておった。じゃで、その件で迷惑をかけた方々への
反省の意をこめて、後日ストリーミングで焼き土下座をしたんじゃ。

焼き土下座じゃ。

でっかい電熱器の鉄板をドイト(ホームセンターのチェーン店)で買ってきて、
それを下にひいて土下座したんじゃ。けっして漫画のパクリとかではない
べろシティのオリジナルじゃ。わしの発案じゃ。

そいつの上で土下座をすると、当然、額は焦げるわな。

ただこの一生の傷痕を通して、わしの深い反省を全国の人々に
示すことができたわけじゃ。

焼き土下座でついた流星型の傷痕は、いまでも額にくっきり
残っておるわい。これもまあ、ひとつの勲章みたいなもんじゃな。

(くもり)The EP

Δじゃ。随分とご無沙汰じゃな。

年末らしく大掃除をしておったら、懐かしい本がでてきおった。
佐神原左京が2010年の冬コミに発表した『The EP』じゃ。

奥付によれば「2030年 第175版 発行」とあるから
おそらく20年前に買ったものじゃろう。巻末にのっていた
解説がなかなかおもしろかったのでちょっと引用して
みようかのう。


The EP / FRANKENSTEINER


「偉人には三種ある。生まれたときから偉大な人、努力して偉大に
なった人、偉大な人間になることを強いられた人だ」。

シェークスピアの言葉である。現代日本に生きる最高の偉人、
佐神原左京はこのうちのどれに当てはまるのだろうか。

私は、時代が左京に強いたのだと思う。日本が一人の若者に託した
のだと思う。この閉塞的な社会の中で、一筋の光となることを。
時代の寵児たらんことを。

21世紀の日本は、20世紀ほど多くの偉人を生むことはないだろう。
科学者や政治家もそうだが、こと芸術家に関しては。

2010年当時、日本全土に長引く不況からか未来に薄暗いイメージが
覆っており、本来想像力をもつはずの若者さえもあくせくと働くか、
あるいは働くための努力(就労準備)をするかで手いっぱいの状況だった。

若者の想像力が貧しくなると、必然的に文化も衰退する。似通った作品、
大同小異のメッセージのみがパッケージ化されて店頭に並び、その
つまらなさに絶望した優秀な者から順にそれを見捨てていった。

そんな文化の終焉を感じさせる21世紀初頭、まさにどん底から
強い意志をもつ一人の若者が同人誌を描き始めた。佐神原左京である。
言わずと知れた00年代の最高傑作、『LEVITATION』で見せた大胆な
アングル(空白の見せ方)は同人界にセンセーションを巻き起こした。

とはいえ、その時点ではまだ同人という狭い共同体の中での熱狂に
すぎなかった。当時、同人に関心のない中高年は、まだ左京という
天才の出現に気づいてはいなかったのだ。

多くの識者が指摘するように、本作『The EP』の発表とともに
この状況は一変する。

『The EP』、10年代に入った最初の年の冬に描き残された、歴史的傑作。
大人から子どもまで、南アフリカからアイスランドまで、どの世代、
どの環境で育った人間が読んでも楽しめるこの掌編により、彼の名は
伝説となった。

時の教皇ベネディクト16世は、この同人誌に対し、「バイブルの次に
重要な書物である」という彼なりの最大限の賛辞をおくった。
ところが、この発言がおもわぬ波紋を呼ぶことになった。

これを受けた世界中の左京ファンは、「『The EP』は聖書とは
比べ物にならないくらい素晴らしいものだ」として反発し、
100万人規模のデモ行進を行った。この騒動は「第一次左京デモ」
として現行の歴史教科書にも紹介されている事実である。

この本を手にとったあなたが、それらの歴史をどこまで深く
知っているかはしらない。ただ、本作は現代に生きるすべての
人間が触れておくべきマスターピースであることだけは確かだ。

21世紀。左京の時代に生きるあなたにとって、この作品は
特別な意味をもつことになる。同時代に生まれた数少ない偉人が
放った歴史的傑作を、どのように受け止めるかはあなたの自由だ。

願わくば、あなたが左京の時代を終わらせる新たな偉人と
ならんことを。

そういえば、こんな時代もあったのう。


(くもり)1円CDの思い出

Δじゃ。twitter熱が30年ぶりに湧いてきておるぞ。

かつて音楽をやっておった頃、1円のCDをだしたことがある。
当日は偽タッパーが一人で接客をしてくれたので、わしは
ほとんど携帯でマリオをやっておったが、その日の応対は
なかなか見ものじゃった。

まず100円払おうとする客が現れた。偽タッパーはそんなことも
あろうかと99円の釣り(ただし10円玉と1円玉のみ)を用意して
おったので、手のひらにドサっと99円をのせておったわ。わしは
横でドヤ顔じゃ。

わしらは考えもなしに1円CDを売るような愚か者ではないからのう。

そして1000円札しかないという強者の客が現れた。こちらは
999円の釣り(ただし100円玉と10円玉と1円玉のみ)を即効で
払おうとしたが、よそで999円のCDを買いに行ってきますと
いってすぐに去ってしもうた。

どこかはしらんが偶然999円のCDを売っとるサークルが
あったらしいのう。今思えば、まさにこっちの1円CDに
合わせた値段設定のようでおもしろいわ。

で、その1000円札を崩してくる宣言をした彼は、1時間後
くらいに戻ってきた。ところがこちらのCDはその5分前くらいに
完売しておったのじゃ。

彼はそれを知り、その場で崩れ落ちそうになった。それをみた
わしは、「では自分用に保存しておいたこのCDを売りますよ」
といって売ってやった。ちょっといい話じゃな。

もっといい話をしようかのう。

M3を途中で引き上げてまっすぐ帰宅したあと、わしは近所の
コンビニによって一人打ち上げ用のビールと枝豆を買った。
そこでふと思い立ち、レジ脇に置いてある募金箱にその
1円CDの売上(大量の1円玉)をすべて投下したのじゃ。

さすがに店員も驚いておったわ。ドサドサと1円玉が
投下されてく様はとてもシュールだったが、互いに
ツッコミはせんかった。大人じゃのう。

CDを売って金儲けとか、そんなのは同人でやること
じゃない。わしは常々そう考えておる。じゃから売上を
すべて募金したのじゃ。

その売上で、アフリカの難民が一人でもドラッグを注射
してくれればわしは満足じゃ。

(雨)CDを売るひとつの方法

Δじゃ。

いつぞや話題にあげた、M3というイベントに出演しておった
頃のポスターがでてきた。これじゃ。

 

  bero_M3poster_10spring.jpgD-70という番号が強調されとるな。これはスペース番号じゃなく、
ある種のカッコつけというか、自分らのことを番号で読んじゃう
わしカコイイじゃ。当時わしは自分のことをDelta the 70(セブンティ)
と読んでおった。Ken the 390とか50 centみたいなノリじゃ。

実際に70歳に近づいた今じゃあ笑えんな。

それはそれと、このころのM3なるイベントはCDを手売りしておった
んじゃな。CDじゃ。LPじゃないぞ。

さすがに今、CDというものを知っておる若者はおらんじゃろうな。
当時は音楽を謎の円盤の中に入れて聴いておったんじゃ。
CDもLPも似たようなもんで、小さな溝の中に音楽を刻みこんで、
それを読み取る装置を使って音楽を再生することができるのじゃが。

どうしてそんなことを? そんなまだるっこしいことせずにデータ
のまま聴けよ、とお思いじゃろう。

その通りじゃ。実際、CDなるメディアは21世紀初頭には廃れておったな。

たしか2010年代には、CDといえばもうアイドルの写真集とか、
握手会のチケットとか、アニメ絵のイラスト集とか、そういった
位置づけのものになってしまっておった。

マニア向けのコレクターアイテムというのかのう。一部の酔狂な者共が
一人で何枚も買い、一般市民は買うことはまずない。そういうもんじゃ。

オリコンチャートなる売上ランキングも、ほとんどそういったマニア向け
のものが席巻してしまっておったな。チャートの歴史についてはいつか
また別個にしっかり書きたいと思っておる。

そうしてみると、M3というCDを手売りするイベントもなんだか奇妙な
気がしてくるのう。何しち面倒くさいことしとるんじゃ、てなもんじゃ。

おそらく参加者たちは、「いや、その面倒くさいやりとりをして交流する
のがええんじゃ」とのたまうじゃろう。それも一理あるんじゃがな。

同人は交流するのがメイン、といってしまうと存外つまらない気がしてな。
新しくてかっこいいものを作っていくこと、消費していくことが肝要じゃと
思っておったんじゃが。

そうした音楽の楽しみ方は、この頃すでに英米のインディーズシーンにしか
なかったのかもしれんのう。

(雨)ファイナルファンタジー

Δじゃ。

このほど発売されたFinal Fantasy 31が巷で話題になっとるな。
発売日にはどこもかしこも大行列で、今頃はみんな寝ずに
プレイしとるところじゃろうかのう。

なに? 全然話題になってないぞ、じゃと?

巷というのはわしら老人界隈でのことじゃ。ゲームには世代間の
温度差というのが色濃くてのう、ファイナルファンタジー
プレイするのは今では老人ばかりじゃ。ちょうどわしらが
子どもの頃の水戸黄門のような位置づけじゃな。

ファイナルファンタジーといえば、じゃ。

かつて老年の政治家が、自らの政治生命をかけて新党結成という
勝負に出たとき「ファイナルファンタジーだ」とのたまった。
人生の最期に、政権奪取・政策実現という幻想を掴もうとする
強い決意を示したのじゃな。

当時はこの発言が、ゲームのタイトルにあやかってることで
若さアピールにもなっていたのじゃがのう。いま同様の発言をしたら
「また懐古厨の老害がなんかいってるぜ」と若者に笑われて
しまうじゃろうな。

還暦をすぎたジジババが、やれ壮大な世界観じゃとか、華麗な
グラフィックじゃとか、テンポの良い戦闘システムじゃとかで
口角泡を飛ばす様は、若者にはさぞかし奇異にうつることじゃろう。

ネットゲームでもそうじゃ。

ジジババばかりが集い、高校生だと嘘をついてパーティーを
組んでおるのも気味が悪いじゃろう。なにせ老人は時間が
余っておるからな、一日中インしてレベル上げできる。
そんな事情から、戦闘では他世代に対して圧倒的な力の差を
見せつけておるようじゃ。

わしらの世代は、そういう世代じゃったんじゃ。

子どもの頃、まだパソコンが無く、かわりにコンシューマの
ゲーム機がほとんどの家庭にあった。ソフトもは高かったので
友達と貸し借りしておった。友達との話題はゲームばかりじゃった。

そんな、ゲーム世代じゃったんじゃ。

この年になってみると、そのことが特別じゃったように感じられる。
若い世代になんとかしてゲームの良さを伝えていきたい。そんな気が
してくるんじゃ。

わかってもらえるかのう。

(晴れ)左京が銅像になるとき

部屋がウンコ臭くてかなわん。

あけましておめでとう。今年の目標は生き延びること。Δじゃ。

年末年始といえば、若い頃はコミケなんていうものに
参加しておったな。音楽やゲームを作っておったでな。

きょうびコミケといって通じる若者はほとんどおるまい。

名前こそ変わったものの、いまも有明では以前とかわらぬ
光景が繰り広げられておるのじゃろうか。あの、左京記念では。

そうじゃ、コミケというのは今でいう左京記念のことじゃ。

年末に開かれる国民的な競馬の行事といえば有馬記念じゃが、
左京記念はそれにひっかけて名づけられた同人イベントじゃ。
いまでは知るものも少ないが、その前身はコミケットという。

なぜコミケットは左京記念に改名したのか。

実はその事情をもっとも深く知る人物が--わしじゃ。

佐神原左京というべろシティのメンバーがおった。
間違いなく、べろシティの中でもっとも出世した人間じゃ。

学生時代から絵がうまいことで評判で、「先生、先生」と
仲間から呼ばれておったのじゃが、2010年頃より才能が
開花したらしく、やつは全国的なスターになった。

2010? いや、もう少し前じゃったかもしれん。

壱世の頃のブログによれば、2007年の年末にはもう名作を
書き始めておったらしい。すこし引用してみようかの。


 佐神原左京。その非凡な同人作家の名を知らないものはもういないだろう。
 前作『LEVITATION』で見せた大胆なアングルのイラストは、同人界隈では
 すでに左京スタイルと呼ばれ一つのモードとして確立されている。

 「コミケット74は佐神原左京一人のためだけに開かれた。」
 私の知人のある大物同人作家はそう呟いた。それほどまでに
 衝撃的だったのだ。大御所と呼ばれる大物同人作家たちの多くも、
 20代の若者があれほどまでの完成度をもつ作品を世に送り出したことに
 舌を巻いたそうである。

 

ここにもあるように、左京はいわゆる天才じゃった。

じゃからコミケはその功績を称えるべく、名前を左京記念に
変えたのじゃ。ちょうど競馬で、名馬シンザンから名をとった
シンザン記念というものがあるようにな。

そういえば、安田記念というのも日本の競馬界に貢献した
安田なにがしという人物にちなんだものじゃったかな。

まあよい。そのような顛末で、コミケは左京記念になった。

全盛期には、有明の人口の40%が左京の同人誌を買うために
行列に並んでいたそうじゃから、その影響力の凄まじさが
うかがいしれよう。同人作家として、いや、漫画家として
初のノーベル文学賞を受賞したのも左京じゃったな。

しかし天才というのはえてして夭折するもので、左京も
若くして死んでしまった。そのときのことは今でもよく覚えとるが、
有明に、そして心に、ぽっかりと穴が開いたようなきがしたわい。

わしはそのような歴史的な人物を間近でみることができて、
いまでも光栄におもっておるぞ。